速田大明神と供僧寺
中世の速田大明神には、これに奉仕する供僧寺があったことが後世の史料から窺うことができるのである。文政8年(1825)の芸藩通志、安政6年(1859)の組合十五ケ村諸事書出帳には平楽寺、光明院、慈仙寺が速田社の供僧寺であったと記されている。平楽寺と慈仙寺の旧地は伝承されていたようで、芸藩通志の上平良村絵図にも平楽寺跡と慈仙寺アトがみられる。光明院の旧地は不明であったが「慶長6年検地帳ニ光明院と申畝高数々有之」と記されており、慶長6年(1601)頃には光明院が存在していたことがわかるのである。
平楽寺は現在の速谷神社前郵便局を中心とした周辺にあり、慈仙寺はアマノ病院付近にあったものと思われる。明治44年(1911)の宮内村治積調書には速谷神社の供僧十二坊として神福寺と円慈坊が記されており神福寺は後の専念寺ということである。神福寺については中世文書にみることができ、厳島社との関わりのあったことはわかるのであるが供僧十二坊との根本史料がなく定かではない。
元禄14年(1701)以降に記されたものとみられる速田社伝記并旧記には「速田別当宝林山 西蓮寺、岩木別当 栄楽寺、供僧十二坊在之 一郎 寺ケ迫 鎮恩寺、二郎 寺山 宝泉寺」とあり、大正15年(1926)の平良村是には、西蓮寺は「速谷神社供僧寺十二坊ノ内別当職ヲ務メ」とある。
速田別当とある西蓮寺は文政8年(1825)の芸藩通志には「往古法林庵与申僧開基禅宗ニ御座候処、慶長八卯年現住林徳与申僧真宗ニ罷成候」とあり、もと禅宗で慶長8年(1603)に真宗に改宗したとのことである。しかし、明治13年(1880)の佐伯郡各寺院由緒調書には「誒寺ハ真言宗ニテ天長年間ノ創立ニシテ當村速谷神社ノ供僧十二坊ノ一ニシテ」とあり、真言宗であったと記されている。以降大正7年(1918)の佐伯郡誌、大正15年(1926)の平良村是とも真言宗と記されているのである。
供僧十二坊の一郎とある寺ケ迫の鎮恩寺は明治5年(1872)の上平良村地券申受帖から現在の二重原で、絵図のオカ垣内付近に寺ケ迫があったとみられるので鎮恩寺はこの付近にあったものとみられる。また二郎とある寺山の宝泉寺は、絵図の吉野とある山が寺山といわれて(第五師団司令部作成迅速2万分1地形図-廿日市村及玖波村近傍之図に寺山とある)おり、古墓がみられることから宝泉寺はここにあったものと思われる。これらいずれの史料も後世のものであり供僧寺十二坊とされる各寺があったとの根本史料が示されてないが、このような記述がされていることに注目し今後の史料発掘を期待したい。
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