平楽寺について
はじめに
 国道433号線の速谷神社前交差点手前左側の民家裏手に小高い権現山があり、北麓に小さな地蔵堂がある。この平楽地蔵はかつての平楽寺の名残りを私達に伝えてくれる唯一の現存史料であり、また小字で残っている堂垣内も平楽寺の名残りを伝えてくれる地名でもある。
 平楽寺は中世厳島社の末社であった速田大明神(現在の速谷神社)との深い関わりのあった寺として中世文書に記されており、寺格の高かったことが窺えるのであるが史料不足のため断片的なことしか知ることができない。 乏しい史料ではあるが可能な限り分かる範囲の平楽寺について紹介してみよう。

速田大明神と供僧寺
 中世の速田大明神には、これに奉仕する供僧寺があったことが後世の史料から窺うことができるのである。文政8年(1825)の芸藩通志、安政6年(1859)の組合十五ケ村諸事書出帳には平楽寺、光明院、慈仙寺が速田社の供僧寺であったと記されている。平楽寺と慈仙寺の旧地は伝承されていたようで、芸藩通志の上平良村絵図にも平楽寺跡と慈仙寺アトがみられる。光明院の旧地は不明であったが「慶長6年検地帳ニ光明院と申畝高数々有之」と記されており、慶長6年(1601)頃には光明院が存在していたことがわかるのである。
 平楽寺は現在の速谷神社前郵便局を中心とした周辺にあり、慈仙寺はアマノ病院付近にあったものと思われる。明治44年(1911)の宮内村治積調書には速谷神社の供僧十二坊として神福寺と円慈坊が記されており神福寺は後の専念寺ということである。神福寺については中世文書にみることができ、厳島社との関わりのあったことはわかるのであるが供僧十二坊との根本史料がなく定かではない。
 元禄14年(1701)以降に記されたものとみられる速田社伝記并旧記には「速田別当宝林山 西蓮寺、岩木別当 栄楽寺、供僧十二坊在之 一郎 寺ケ迫 鎮恩寺、二郎 寺山 宝泉寺」とあり、大正15年(1926)の平良村是には、西蓮寺は「速谷神社供僧寺十二坊ノ内別当職ヲ務メ」とある。
 速田別当とある西蓮寺は文政8年(1825)の芸藩通志には「往古法林庵与申僧開基禅宗ニ御座候処、慶長八卯年現住林徳与申僧真宗ニ罷成候」とあり、もと禅宗で慶長8年(1603)に真宗に改宗したとのことである。しかし、明治13年(1880)の佐伯郡各寺院由緒調書には「誒寺ハ真言宗ニテ天長年間ノ創立ニシテ當村速谷神社ノ供僧十二坊ノ一ニシテ」とあり、真言宗であったと記されている。以降大正7年(1918)の佐伯郡誌、大正15年(1926)の平良村是とも真言宗と記されているのである。
 供僧十二坊の一郎とある寺ケ迫の鎮恩寺は明治5年(1872)の上平良村地券申受帖から現在の二重原で、絵図のオカ垣内付近に寺ケ迫があったとみられるので鎮恩寺はこの付近にあったものとみられる。また二郎とある寺山の宝泉寺は、絵図の吉野とある山が寺山といわれて(第五師団司令部作成迅速2万分1地形図-廿日市村及玖波村近傍之図に寺山とある)おり、古墓がみられることから宝泉寺はここにあったものと思われる。これらいずれの史料も後世のものであり供僧寺十二坊とされる各寺があったとの根本史料が示されてないが、このような記述がされていることに注目し今後の史料発掘を期待したい。

平楽寺
 平楽寺がいつごろ創建されたのかは定かでないが、厳島神主家藤原氏時代である享禄元年(1528)の藤原(友田)広就安堵状に「為速田御造営領、講丸之内堂垣内下地三反奉寄進者也」と堂垣内地名がみられるので、平楽寺はこの頃以前から存在していたことは間違いないであろう。
 大内氏支配時代の天文15年(1546)8月16日の「大内氏厳島社領段銭請取状」には、桜尾城督であった鷲頭御内の上生十郎盛家、等石斉()・山本和泉守泰久と神領衆の野坂兵庫助藤綱が平楽寺分領から今秋分の段銭250文の納入があったという請取状があり、平楽寺の寺名が初めてみられるのである。
 天文20年(1551)正月21日の野坂藤綱安堵状と同年11月26日の野坂武繁宛行状によると、どこにあった寺なのか不明であるが宝積院の奝義房の名がみえ、天文21年(1552)12月16日に大内氏を倒した陶晴賢は、この奝義房を平楽寺住持職として安堵している。
 芸防引き分け後桜尾城主となった桂元澄は、永禄6年(1563)9月8日に奝厳房が平楽寺住持職を相続することを安堵しており、いずれも時の領主の安堵を得ているなど平楽寺の寺格の高さを表している。
 天正20年(1592)正月25日の平良庄内平楽寺領打渡坪付によると平楽寺の寺領はホノギ「宮ノわき」1筆、「門前」2筆、「ゆめん祭田」「せかき免」「ゆめん大般若免」の各1筆と寺屋敷など田数1町90歩、分米7石9斗6升の寺領を桜尾城主の毛利元清は打渡している。いずれのホノギも速田社や祭事・仏事に関する名称であり、速田社との関係の深い場所に寺領が設定されたものとみられ、速田社と平楽寺との関わりを窺うことができるのである。
 天正5年(1577)12月25日の新五郎出挙米借用状によると、古代から中世にみられた利子付きの貸借である出挙(すいこ)が平楽寺でも行われていたようである。当地の百姓であろうか新五郎が3斗の米を来秋まで利息6割で借用し、返済できない場合は自分の次男の秋法を譜代下人に差し出すというものであり、このような出挙の制度も寺院財政の維持に役立っていたものとみられる。
 歴代の領主から庇護を受けていた平楽寺は福島正則の近世的な社寺領支配体制下に組み入れられて寺領没収による経済的な打撃や、西蓮寺が慶長8年(1603)に真宗に改宗しているように真宗寺院の進出や安芸門徒の増加などにより衰退していったのではないかとみられるのである。
 明治5年(1872)の上平良村地券申受帖には各田圃のホノギが記してあり、平楽寺の旧地と思われる堂垣内3筆と寺ノ前、平楽寺2筆が記されているが、現在のどの位置に当たるのか不明である。現在の小字である堂垣内は明治時代に設定されたもので広範囲のホノギが含まれており、平楽寺とは関係ない他の場所も含まれているのである。

平楽地蔵
 平楽寺が衰退してその跡地に平楽地蔵が祀られたものとみられるが、いつの時代に祀られたのかは定かでない。組合十五ケ村諸事書出帳の平楽寺の項には「其旧地石地蔵今尚有」とあり、平楽寺が荒廃してからも地元民が旧地の一角で平楽地蔵を祀ってきたものとみられる。
 速谷神社造営誌には「旧参道の路傍の小さき堂内に安置し」とあり、速谷神社参道は明治8年(1875)1月に改修されており、その後昭和5年(1929)6月に参道改修されているので旧参道は明治改修の参道脇に安置されていたようである。
 速谷神社は国幣中社昇格に向けて第一期造営工事がなされており、大正13年(1924)11月に郷社であった速谷神社は国幣中社に昇格し、続いて第二期工事が行われて造営工事は完了した。
 速谷神社の造営工事が完了してから周辺整備も行われたようで、昭和5年には参道の改修が行われ、速谷神社の創建と関わりのあるとされる岩木神社があった権現山を神社境内地にされ、一角には平楽地蔵堂が新築移転し御列格記念碑が建立されている。
 平楽寺の名残りを伝える由緒ある平楽地蔵堂は当時荒廃していたために堂垣内の人々が中心となり、上平良村の住民などの浄財金245円57銭を集めて権現山麓に新築し、昭和7年(1932)4月20日に竣工式を行って地蔵供養も行われたようである。これより先2月には広島新四国霊場88箇所の開創で平楽地蔵堂は霊場第6番に指定されていたが、現在第6番は大心寺に変更されている。
 堂内には当時の寄付者と金額を記した寄付板が掲げてあり、これをみると上平良の住民多くの厚志が平楽地蔵堂に対して寄付されており、由緒ある平楽地蔵堂が信仰されていたことがわかる。 
 反対側の寄付板をみると上平良の住民多くの寄付により昭和25年(1950)8月1日から10日かけて改築が行われているようであり、昭和49年(1974)には以前瓦葺であったものを鉄板葺きに葺き替えしており現在に至っているようである。

引用文献
廿日市町史資料編Ⅰ廿日市町史資料編Ⅱ廿日市町史資料編Ⅳ廿日市町史資料編Ⅴ廿日市町史通史編上巻・佐伯郡誌・芸藩通志・速谷神社造営誌・上平良村地券申受帖・佐伯郡各寺院由緒調書・廿日市村及玖波村近傍之図

はつかいち点描




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